ホーム>教育深夜便 第30回 戦中・戦前の子どもと教師

教育深夜便 川野邉 敏

-Profile-

川野邉 敏(かわのべ さとし)

昭和5年埼玉県生まれ。昭和28年東京外国語大学ロシア語科卒後、文部省入省。 昭和48年から国立教育研究所で国際関係・生涯学習関係の研究に従事。平成7年より常葉学園大学教育学部教授、平成16年より星槎大学教授。この間、東京大学学部および大学院、慶応大学・広島大学・筑波大学大学院等で非常勤講師。専門は比較教育・生涯学習。主な著書に『ソビエト教育の構造』(新読書社)、『ロシアの教育―過去と未来』(新読書社)、『子どものしつけ』(三一書房)、『現代に生きる教育思想』(ぎょうせい)、『世界の幼児教育』(日本らいぶらり)、『新任教師への手紙』(ぎょうせい)、『生涯学習論』(福村出版)、『教師論』(福村出版)など多数。

 
 

第30回

戦中・戦前の子どもと教師

「前回」書いたように、妻との別れを迎えて、かなり時間がたちましたが、不思議と自分の子ども時代の体験を思い出します。よく、広島・長崎の原爆の「語り部」という人びとが、戦争の時代を語り継がねばならないという思いで、子どもたちに、戦中前後の状況を語っている心情と同じなのかもしれません。

 

私が通った小学校は実家の近くにあり(埼玉県北部の熊谷市)、木造の古い平屋と2階建があり、「学校」とはグランドも含めて、自分が囲まれた「特別な空間」であると思い込んでいました。戦後、ソ連時代にモスクワやキエフなどの学校を訪問したとき、学校が3~4階のビル群の一角にあり、「学校番号」が書いてあるだけで、一般住宅と判断できないことにびっくりしたことがありました。日本の場合、必ず広い校庭があるものだと信じていたのに、それもないのです。学校の外観や内部の構造まで、自然環境や地域の慣習などによって、大きな違いのあることに気付いた最初でした。

 

小学校時代(昭和10年から6年間)の思い出で、不思議に思うことは、担任の先生(3人)の名前は今でも思い出せることでした。1年は「澄江先生」、2~3年は「慎一郎先生」、5・6年は「和三郎先生」(名字は省略)です。学校生活全体では印象が薄いのに、3人の先生の名字だけでなく、名前まで記憶しているということはなぜなのか、今でも不思議に思います。澄江先生には、一度頭をなでられ「いい子だね」とほめられたこと、慎一郎先生は、先生の趣味であるらしい「習字」を休み時間でも「教卓」(生徒に向かって左側の先生の机)で書かれていたこと、和三郎先生は、授業に関係なく「宮本武蔵」の話を聞かされたことや、雪降れば授業を放棄して雪合戦をさせてもらったこと、などが浮かんできます。クラスの構成は、たしか3年から男女のクラスが別々になり(1~2組は男子、3~4組が女子、5組が混合です)、5組に行けなかったことを残念に思ったものです。

 

中学校(5年制)に進学する者はおよそ一クラス5~6人(1割弱)で、あとは高等科(小学校付設で2年制)に進学しました。受験のための試験はなく、内申書と鉄棒と荷物運び、といったものでしたので、今のような受験準備はありませんでした。体が丈夫かどうかが決め手でしたので、逆上がり、蹴上がり、回転などは体操の時間に何度もやらされたような記憶があります。校庭には「鉄棒・誘導円木・相撲の土俵」があっただけだったと記憶しています。

 

しかし、戦争の激化は、先生と生徒との接触・連携を破壊してしまいました。「担任の先生」など、名前すら思い出せないのです。1年生の春・秋の農繁期には「農家の手伝い」に駆り出され、2年生になると、「軍事教練の時間」ばかりが記憶に残ります。学校には配属将校(軍人)が配置されており、「村田銃」(旧くて実践では使い物にならない重い銃)を担がせられたり、厳しい初歩的軍事訓練を受けたり、「夜行軍」や「藁人形の突きかた」などを教えられました。中学3年になると(昭和20年)、授業は全くなく、生徒全員が各種の工場に派遣され、私は「三井精機桶川工場」という軍事部品の製作工場に割り振られ、熊谷から高崎線に乗って桶川まで通いました。「学校の先生」は、私たちの前から完全に姿を消してしまったのです。

 

現在の学校は、戦前・戦中とは別の次元(国際化や情報化の嵐)で、「先生と生徒との接触・対応」は適切に行われているのでしょうか。いじめ・不登校・自殺の増大などのニュースが報じられるたびに、不安に駆られてしまいます。先生の姿や言葉はどのような状況の中でも、子どもたちに生涯、影響を与えているということを、改めて感じてしまいます。戦前・戦中の中学校の「先生」であってはならないと願っています。