ホーム>教育深夜便 第31回 「敗戦」をエネルギーに変えた若者たち

教育深夜便 川野邉 敏

-Profile-

川野邉 敏(かわのべ さとし)

昭和5年埼玉県生まれ。昭和28年東京外国語大学ロシア語科卒後、文部省入省。 昭和48年から国立教育研究所で国際関係・生涯学習関係の研究に従事。平成7年より常葉学園大学教育学部教授、平成16年より星槎大学教授。この間、東京大学学部および大学院、慶応大学・広島大学・筑波大学大学院等で非常勤講師。専門は比較教育・生涯学習。主な著書に『ソビエト教育の構造』(新読書社)、『ロシアの教育―過去と未来』(新読書社)、『子どものしつけ』(三一書房)、『現代に生きる教育思想』(ぎょうせい)、『世界の幼児教育』(日本らいぶらり)、『新任教師への手紙』(ぎょうせい)、『生涯学習論』(福村出版)、『教師論』(福村出版)など多数。

 
 

第31回

「敗戦」をエネルギーに変えた若者たち

終戦直後、私は中学3年生でした。終戦当日、生地熊谷は大空襲をうけ、町の中央は焼け野が原になり、天皇の「詔勅」は聴くことができず、人づてに敗戦を耳にしたというのが実態でした。焼け跡には「テント」の小屋が立ち並び、「女性は髪の毛を切る、家から出てはいけない」とか「これからどう生きたらよいのか」などといった噂話で持ちきりだったのです。

 

 

私たちの知らないまま、学校も教師も、大変な状況に置かれたようです。昭和21年には「新制中学」が発足し、それまでなかった3年制の学校建設が開始され、設置者とされた市町村は学校建築や教員募集に苦労していました。仮教室やバラック風の教室が町の中にも現れました。校長が自殺したというニュースが新聞紙上をにぎわせてもいました。

 

教育内容も一挙に変更されました。ご存じのように、修身・国史・地理・教練・柔道・剣道が禁止され、教員の移動が活発に行われました。また、極度の戦争協力者と見なされた教師の追放も行われました。多くの教師が転職・廃職を迫られたのです。

 

母校の姿も変わりました。校門の左側に置かれていた「公安殿」が、いつの間にか取り壊され、「剣道場」や「柔道場」も内部が一変しました。母校の校内に数人の先生方が家族ぐるみで住むようにさえなりました。娘4人を抱えたK先生(西側の入り口の和室)、2人の小学生を抱えたもう一人のK先生(用務員室の一部)などです。在学中に好きだった「漢文」の先生の姿も、戦争中に馬に乗って校庭に現れていた校長の姿も見られなくなりました。

 

一方、生徒のほうは、元気一杯でした。授業は5日制になり、スポーツ・文化活動が奨励され、自主的に活動することが認められたのです。各種の「部活動」や文化祭・運動会などは、食糧難の中でも活発でした。放課後、教室の机を整理し、ダンスの練習すら行われていたのです。文化面では「英会話クラブ活動」も盛んになリ、「英語」に自信のあった生徒は市内の中学生を集め、「英会話コンクール」などを主催してもいたのです。

 

私は、既に書いたと思いますが、「野球部」に入りました。終戦直後はただ好きな生徒だけの集まりでしたが、昭和21年から中等野球全国大会が開始されたこともあり、埼玉県でも「埼玉県中等野球大会」が開始され、春・秋の大会や夏の全国大会の予選を行うようになったのです。「熊中」もそのような中で、優勝候補の学校の一つになり、学校・地域を挙げて、応援してくれるような雰囲気になっていました。

 

私は、その流れの中で、中学卒業後も迷うことなく「新制高校」の3年生に編入し、野球部のキャプテンに推挙され、昭和23年の春には、「関東大会」で優勝しました。しかし、夏の大会では成田高校に敗れ(埼玉・千葉から1校のみ出場)、甲子園への夢は断たれました。そのような経緯もあって、卒業後もコーチ格で後輩の指導を行っていましたが、翌年、母校は埼玉県で初めて、夏の全国大会に出場し、昭和26年には準優勝(優勝は平安高校)を果たしたのです。甲子園では外野ノックを担当しましたが、それらのことが、私の「ひそかな誇り」になっています。