ホーム>教育深夜便 第40回 「学校」が呼びかけている

教育深夜便 川野邉 敏

-Profile-

川野邉 敏(かわのべ さとし)

昭和5年埼玉県生まれ。昭和28年東京外国語大学ロシア語科卒後、文部省入省。 昭和48年から国立教育研究所で国際関係・生涯学習関係の研究に従事。平成7年より常葉学園大学教育学部教授、平成16年より星槎大学教授。この間、東京大学学部および大学院、慶応大学・広島大学・筑波大学大学院等で非常勤講師。専門は比較教育・生涯学習。主な著書に『ソビエト教育の構造』(新読書社)、『ロシアの教育―過去と未来』(新読書社)、『子どものしつけ』(三一書房)、『現代に生きる教育思想』(ぎょうせい)、『世界の幼児教育』(日本らいぶらり)、『新任教師への手紙』(ぎょうせい)、『生涯学習論』(福村出版)、『教師論』(福村出版)など多数。

 
 

第40回

「学校」が呼びかけている

「学校」はすべての成人にとって「心の奥底に秘められた宝庫」だったのです。私は、今年3月末日に、NHKのテレビ画面に、母校(熊谷西小学校=埼玉県)の先生方が、子どもたちに手を振って呼びかけている姿が映し出されたのを見て(コロナの影響を受けて学校に通えなくなった子どもたちへの呼びかけ)、とっさに「頑張ってほしい」と学校の所在地を確認して、電話してしまいました。後日、校長先生から「教員の皆さんに連絡しておきました」と丁寧な返事をいただき、恥ずかしさとともに、今でも「母校」が心のどこかにしみ込んでいたことに、驚きを感じさせられたのです。

 

私のささやかな体験をきっかけにして、戦時中の「小学校」の話を加えさせていただきますと、当時は「国民学校」と呼ばれ、戦時教育のさ中にあったはずですが、子どもたちにとって、そのような呼称はどうでもよかったのです。木造の校舎とグランドだけでしたが、子ども心にも「自分の居場所」を感じさせてくれました、校庭の一角には相撲の土俵と鉄棒や遊動円木などだけでしたが、それらを自分たちのものとして、日暮れまで遊んでいたのです。

 

なお、終戦後に変わったことといえば、男女共学になり、同じクラスで男女が学ぶようになったこと、そして、友達の多くが最終学校であった「小学校」から、「新制中学校」へ進学する「初等教育学校」に変更されたこと―くらいでしょうか。私が通った当時の小学校では、机は男同士の二人がけで、それぞれに狭い引き出しがありました。登校すると二人で顔を寄せ合って、たわいもないことを話し合ったり、教科書や持ち物の確認をしたりして過ごしていたことを思い出します。

 

もちろん、戦後75年の長い年月をかけて学校は、見違えるように改善・整備されてきましたが、子どもの学校での基本的な生活や行動は変わったわけではなかったと言えます。実は、戦争中の私の通った小学校は空襲で全焼し、建物も設置場所も別の地に移されていますが、「母校」として心の底に残っていたということです。

 

そんな経緯で発展してきた「学校」が、かつて体験したことのない大きな変化にさらされているのです。子どもたちの楽しい学びと遊びの場が、突然のコロナの出現により一変してしまったのです。

 

「3蜜」という言葉が生活の中に浸透し、人と人との接近や集団的な行動、外出や旅行などが制限され、子どもたちもこれまでの学校生活で日常行ってきた学習や行動(グループ学習、クラブや部活動、休み時間の自由な遊び)なども、制限されているような状況です。みんなで学び、楽しくすごしてきた学校生活は、どうなってしまうのでしょうか。

 

国の政策としては、当面、ワクチンの開発や治療方法の改善など医療分野での解決を急いでいますが、未来の社会の形成者である子ども主体の「学校」の在り方への対応も、教育界にとっての大きな課題になっているのは当然のことです。

 

そんな状況の中で、「学校」は私たちに呼びかけているのです。先生方は「学校生活」を早く正常に戻して欲しい、学校内や教室内での行事・授業活動を再検討して欲しいと求めていますし、子どもたちは、学校・教室の中でみんなと一緒に語り合い、元気に飛び回れるような、楽しい学校の再開を願っているはずです。「プログラミング」の時間が新設され、「ITの活用」による「オンライン学習」などが目立つようになりましたが、それで解決されるのはごく限られたことだけでしょう。

 

私たち昔の者にとっては、「元気で活発な子どもたち」の声が聞こえる「学校」のイメージを消しきれません。その声をしっかり受け止めながら「学校とそこでの教育」の在り方を改めて考えて頂ければ幸いです。